ローマ人への手紙8章28節
「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」
メッセージ要約
1.完全な赦し
私たちの経験する失敗や辛い出来事は、時に深い傷となってしまうことがあります。私も挫折によって、教会生活の中で神様に仕える自分の”立ち位置”に悩むようになりました。自分の犯してしまった罪をずっと背負っていながら、苦しくても自業自得だから仕方ないと自分を責めていました。ある時開かれた聖書箇所が心に留まり、そこにはイエス・キリストの十字架の姿が書かれていました。イザヤ書53:3~6節です。「…しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。…」彼とは、イエス様のことで、私たちがどれだけ自分が傷を負ったと感じていても、神が与えたそのひとり子こそが実際には全ての痛みを背負ったということです。私はこれまで自分の背負っている十字架があるように捉えていましたが、実はその十字架は私の手から既に手放されていて、イエス様が全て代わって責任を負われたのだと、あなたは、もう赦されているよ、私の十字架と赦しを受け取ってくれますか?」と言われたような感覚になり、その時にようやく、私の背負うものは、もうイエス様によって解放されていたんだと感謝することが出来ました。
2.完全な愛
神様の赦しを受け取れるようになってきてから、またひとつ、イエス様の姿を憶えました。神様は神を愛する者たちとともに働かれるということで、私は自分の中に愛を一生懸命探しました。神様と共に働きたくて、愛したいと思ったからです。しかし、神様のような、純真で尊い愛情は全く見つかりませんでした。では、神様は、神を愛せないような私とは共に働いて下さらないのだろうか…?
ヨハネの手紙 第一の手紙10節にこうありました。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
「愛」を持っている方は、神様なのです。純粋な「愛する」が出来るのは、本来神様だけです。そして、その「愛」を私たちへ繋ぐ役として立っておられる方がイエス様です。本当は、私たちは生まれた時から、生まれる前から、イエス様の囲む完全な愛で既に包まれています。イエス様の愛の中に居ることを知って十字架の愛を受け入れることが、私たちから神様にできる「愛する」の根本的な形のように感じました。神様は欠けがある状態の私たちに新たな役を与え、共に働かれ、責任をとってくださいます。だから、すべてのことが益となるのではないでしょうか。神様の内にあって、私たちは平安を感じることができます。それは、どんな姿の私たちであっても、ともに働こうと手を差し伸べてくださるイエス様の完全な赦しと愛があるからです。神様のもつ技と守りに信頼し祈り続けること、これからの一歩一歩をともに歩かせていただけることに感謝して、主に従っていく決断を今新たにしています。