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礼拝メッセージ
6/30礼拝
元旦の合同礼拝、そして地震で始まったこの年も、半分が過ぎようとしています。自然災害はもとより、人の営みによる政治や経済においても、何が起こってもおかしくない日常は、不安に満ちています。わたしたちの生活を一変させる出来事は、身近に溢れているのです。そのようなわたしたちに神は約束を与え、何ものによっても奪われることのない土台を与えてくださっています。 -
礼拝メッセージ
6/16礼拝
わたしたちの日常は、その時代、置かれた場所によって異なっています。神の前の礼拝や信仰の歩みも、枠組みや見た目において異なってくるのは、当然のことです。例えば、病や事故によって特別の環境に置かれた時、あるいは、国や家を失い、いまいる所から出ていかなければならなくなった時、わたしたちは今までとは違う信仰の歩みを経験することになるでしょう。 -
礼拝メッセージ
6/2礼拝
ペンテコステを通して聖霊の恵みを経験した弟子たちは、神の助けによっていろいろな力ある業を行っていました。生まれながら足の不自由だった人が、歩けるようになった出来事を知り、驚いた人々が集まってきたところで、ペテロは力強くイエス・キリストの復活を証しします。しかしそれを受け入れることのできない民の指導者たちは、彼を捕らえ弁明を求めます。それに対しペテロは「あなた方が十字架に付けて殺し、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によって彼は癒された」と語り、「この方以外には救いはない」と、人ではなく神に聞き従うべきことを宣言します。人々はこの出来事によって神をあがめており、癒された人もそこに存在していては、だれも言い返すことができませんでした。 -
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5/19礼拝
今日はペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝です。教会にはいろいろな記念日がありますが、イエス・キリストの誕生を記念するクリスマス、主の十字架の死からの復活を記念するイースター、そして天に帰られた主の 約束された聖霊が待ち望んでいた人々に下ったことを記念するペンテコステは、主を信じるすべての人にとって、大切な意味を持ちます。またペンテコステは教会の誕生日ともいわれ、目に見えなくても共にいてくださる主によって一人ひとりが結び合わされキリストの体なる教会を形成していく始まりとなりました。今日はルカの福音書を記したルカが、主が天に帰られた後、聖霊によって人々がどのように変えられ、主が生きておられることを証ししていったかを記した使徒の働きの最初の部分を開いています。 -
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4/21礼拝
わたしたちの人生は同じように見えても、一人として同じ歩みをすることはありません。また、笑っているように見えても悩んでいたり、困っているように見えても楽しんでいたり、見える部分とその心のありようも、人によって様々です。 -
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4/7礼拝
イエス・キリストが十字架にかかられたことは、新しい社会や救いを待ち望んでいた人々にとって、大きな悲しみであり失望でした。それ以上に、いつも自分たちの前を歩んでいた主を失ったことは、弟子たちにとっては絶望であり、恐怖でした。どうしたらよいかわからず、人目を避けて集まっていた彼らに、主は自分が生きていることを示されました。それを弟子たちが受け止め、理解していくために、彼らが慣れ親しんできた状況を主は用いられたのです。主が彼らの前からおられなくなった時、彼らができたことは、主に従う前に行っていた漁でした。全く魚が取れない状況は、最初の主との出会いを思わせました。そんな時、岸から「舟の右側に網を打ちなさい」と声がかかったのです。彼らはその言葉に従い、153匹の大きな魚が網にかかりましたが、網は破れませんでした。弟子たちにとって、彼らの日常に力強く働く神の御手は、慰めと力に満ちた恵みでした。神はわたしたちが、神に従い特別な生き方をしているから用いられるのではなく、わたしたちの日常の歩みの中に声をかけ、そして神のたしかな存在をあらわしてくださいます。主は遠く離れた方ではなく、わたしたちのすぐそばに寄り添い、的確な導きを与えてくださる方なのです。 -
礼拝メッセージ
3/24礼拝
イエス・キリストの公の生涯は、メッセージと神の奇跡、そして人々との交わりでした。その交わりは、選ばれた十二人の弟子を中心に多岐にわたります。十字架にかかられる前、主は自分が去った後のことを思いながら、力と望みに満ちたメッセージを弟子たちに残されました。しかし彼らはそれをすぐには理解することができずに、それぞれ悩み苦しむことになります。 -
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3/10礼拝
東日本大震災から13年がたとうとしています。けれども災害はその後も絶えることなく、地震、豪雨、突風だけでなく、伝染病や、争いによるテロなども身近な現実となってきています。皆さんにとって、思いがけない状況で巻き込まれる災害とは、どのようなものでしょう。聖書には人が遭遇した災害が記されていますが、自分ではどうすることもできない自然災害よりも、人の手によって与えられる暴力のほうが恐ろしく感じます。たといそれが飢饉や、病により始まったものであっても、自分や家族、部族や国を守るために他者を傷つけることは許されるのでしょうか。わたしたちが一つの基準を持つと、違いからくる対立が生まれ、自分の正しさを疑わない人は他者を裁き,否定する人になってしまいがちです。神の思いは、イエス・キリストの十字架を通して私たちに届けられています。だからこそ、キリストを通してわたしたちの思いをはるかに超える神の思いを知り、人を裁くのではなく神の約束を信じて平安を得ようではありませんか。 -
礼拝メッセージ
2/25礼拝
早いもので、もうすぐに三月になろうとしています。能登半島の地震から始まった日々も、現地の方や関係のある人々以外は、急速に他人ごとになってきているような気がします。東北で経験した震災もいまだにその影響が続いていますが、意識していなければ、その時の不安や恐れ、困難だった日常を忘れてしまいます。私たちの生きている世界には、まだまだ私たちの知らない思いもかけない現実や、人の知恵では解決できない課題があふれていることを思うときに、神がイエス・キリストを通して与えてくださったメッセージは、大きな慰めであり力です。
