私が教会に行くようになったキッカケをお話しさせていただきます。

ご興味ある方はお読みいただけたら幸いです。

M・Iさん(30代・男性)

私の生まれた家は両親が教会で出会って結婚したクリスチャンホームでした。

小さい頃は母に連れられて日曜礼拝に行って、午後は買い物について行ってクリームソーダなどを飲むというのが毎週日曜日の私の生活パターンでした。

そのころ喜多方待望教会では文語訳聖書を使っていましたから、大人たちは、汝、汝等と何度も何度も言うので、教会の人は何時?何時?と時間をよく気にするのだなと思っていました。大人になった今では汝、汝等があなた、あなたたちという意味であるということを知っています。

初めてギターの音色を実際聞いたのも教会でした。その当時いた独身の若い伝道に熱心な先生がよくギターを弾いていました。それを聞いた時、ギターの音色ってお腹に響くいい音がすると感じました。そのことを今でも覚えています。

しかし、小学校中学年になると教会に行かなくなりました。教会ではためになるお話が聞けることはわかっていて、もちろん、害などないのですが、小学校中学年の私には他にやりたいことがあり毎週教会に行き続ける強い理由が見いだせなかったのです。

教会に行かなくなってからは、神様という存在についてぼんやり考える年月が過ぎていきました。

私は子供の頃から科学が好きでした。宇宙がどのような秩序で動いているか、宇宙の終わりはどのようなものか。逆に宇宙の始まりはどうであったのかが気になっていました。

中学、高校と科学の本を読んでいく中で宇宙について根本的な法則を見つけた一人の物理学者を知ることになります。

それはアインシュタインでした。アインシュタインは言います。

「すべての物理学の法則は、互いに等速並進運動するすべての慣性系に対して同じ形で成立する」と。

この“同じ形で成立する”というところが私は気になりました。ただ単に“成立する”だけでいいようにも思えました。“同じ形で成立する”というのはつまり、“すべての物理学の法則は一つ”と言いたいわけです。いまだかつてそのようにはっきりと“すべての物理学の法則は一つ”であることを明文化されたものを見たことがありませんでしたから、それを知ったときには非常に驚きました。

確かに先ほど述べた相対性原理とその他に、光速不変の原理の二つを仮定して、数学的に理論を展開していくと、対称性を持った美しい理論が導かれます。

そうなってくると“すべての物理学の法則は一つ”というのは“運動する物体”に限らず、宇宙の中のすべての物理現象に対して成立するように思われてきます。

しかし、なぜ、“すべての物理学の法則は一つ”と言えるのでしょう。

物理学でその答えを導くことはできません。仮定してうまくいくことは、数式や実験結果で確認できても、それは仮説の域を越えません。すべての物理学の法則が演繹的な仮説にすぎず、反例が見つかったらおしまいという宿命を持っています。

物理学で答えを導くことができないなら、“すべての物理学の法則は一つ”という宇宙はどのようにできたと考えればよいのでしょうか。

一人の神様が“すべての物理学の法則は一つ”という宇宙を作ったと考えるのが自然と思いました。

このようにしてまず私は創造主としての神様を信じましたが、人格を持った神様についてはあまりよくわかっていませんでした。

高校二年になり、将来の進路選択、大学受験を考えるようになったとき、自分のアイデンティティーがどこにあるか。キリストについてよくわかっていないところをもう一度整理しようと思って、教会にまた行き始めました。

高校の時、3年間合唱部でラテン語の宗教曲や隠れキリシタンを題材にした合唱曲などを歌っていたことも手伝って教会に行きだすきっかけになったかもしれません。

教会に行き始めてしばらくたって、良心の呵責から逃れる方法というのが最大の関心事となりました。

故意に人を傷つける、逆に積極的でなく、消極的な無関心ということも罪ですし、

罪を起こす感情が世の中の不幸や苦しみの根源になっているとも思いました。罪を人は許してくれても罪を犯した事実は消えません。“罪の支払う報酬は死である。(ローマ6:23)”という言葉が実に真実だと思いました。聖い神には自分は近づけません。神と自分とを隔てた長い距離の中に人間の悲しみを感じました。神と罪ある人間の距離はいかなる努力や高度な考えを積み重ねることをもっても埋めることのできない無力感がありました。

その後数年かかりましたが、十字架にかかるべきだったのは私だったのに、キリストが私の罪のために死んでくださったこと。それによって罪が許されたこと、神様が愛してくださっていることがゆっくりとわかってきて2007年の12月23日、20歳で受洗することができました。

「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(ローマ5:8)」