2024年度 No.10

『約束の子の受難』石﨑善土師

創世記22章1~14節

…「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」…

メッセージ要約

 信仰の人アブラハムにも、試練が訪れます。それは、「独り子を全焼のささげ物として献げなさい。」というものでした。これはイエスの十字架の型です。このときのアブラハムの苦悩を通して、私たちは、イエスの十字架で神が負って下さった苦悩を垣間見ることができます。
 全焼のささげ物とは、傷のない(きよい)羊を、焼き尽くして献げます。焼き尽くすことで、ささげる人の手許には、貴重な羊が何一つ残りません。このささげ物は、献げる人の身代わりで、自分を献げることを意味しています。アブラハムにとって、もっとも大切なイサクを献げることは、自分の全てを献げることでした。この、信仰によるささげ物をするとき、神は聖としてくださいます。
 聖とされることは、神の物となり世から分離すること、聖別を意味します。アブラハムはウルを出発するときに、偶像から離れたことからはじまり、信仰による人生の中で、この世(世俗)から段階的に離れてきました。そして、約束の子イサクを、神の命令に従って献げることで、全く神に従う信仰があることを現わしました。そこには、これまでのように、この世を恐れる姿はありません。また、全能の神は、イサクを献げても、復活させ、先の約束を果たしてくださるという信仰がありました。
 イサクはこのとき、すでに成人していて、老人のアブラハムが体力的に叶うはずがありませんでした。しかし、イサクが父に従順に従ったことで、全焼のささげ物が成立しました。それは、イエスが父なる神に全く従ったことと同じです。イエスの十字架も、父なる神とイエスが共同して行ったことが、分かります。
 このことを通して、私たちは父なる神の苦悩を知ることができます。「聖書は、わたしについてあかししているものです。」(ヨハネ5:39)とある通りです。私たちの救いは、神の苦しみによって成り立っています。私たちの身代わりとしてイエスを十字架に架けた神は、私たちにアブラハムと同じ信仰があると見なし、祝福すると約束して下さっています。なんと幸いなことではないでしょうか。