2025年度 No.18

『土の器の中に』 小泉創師

コリント人への手紙第二 4章7節~15節

・・・私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。・・・

メッセージ要約

1.あふれる苦難、あふれる恵み

 神を信じる者には苦しみがないのか。信仰をもてばすべてのことはうまくいくのか。世の中の一般的な考えもそうです。神を信じる者におそいかかる苦しみ、については聖書全体に繰り返し記されています。一番は、イエス・キリスト。病を知り、迫害を受け、十字架でついて苦しんで下さったお方。

 不健全な教えは、「病は罪の結果だ」と教えます。そして病や困難は信仰がないせいだと責めたて、恐怖でがんじがらめにして、その教えにとりこんでいきます。聖書にはそう書いてありません。

 1:4-5神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。・・私たちにキリストの苦難があふれているように、私たちの慰めもあふれている。

 私たちの出会う苦しみの先には、慰めが備えられています。あふれる苦しみは、神さまからの慰めがあふれるときとなるばかりか、他の苦しむ人への慰めにもつながっていくのです。あなたが、みなさんが、教会が苦しむとき、そこに神の慰めがあふれることを期待しましょう。


2.土の器の中に

 パウロは、今日の聖書箇所の中で、自分自身におとずれる苦しみについて語っています。

 信仰さえあればどのようなことがあっても全然平気で、揺るがないし、傷つくこともない、何もこわいものなどない、とは言っていません。私たちも頑丈で、何があっても大丈夫で、いつも笑顔でつぶやくこともないものではありません。弱ることもあるし、途方に暮れることも。

 それはパウロが自分たちは土の器だと言っていることにあらわれています。土の器は、高価な焼き物ではありません。日常に使う、素焼きの器。何かがあたれば欠けるし、ヒビだって入る。しかしそのような器の中に、神は高価な宝を入れて下さっている。私たちに与えられている宝とは、何でしょうか。

 福音、永遠のいのち、イエス・キリスト、聖霊、恵み、神の愛・・。土の器が苦しみにおそわれて弱さが明らかになるときに、神の測り知れない力があらわれます。

 8,9節。苦しめられるが、窮することはない。迫害されるが、見捨てられることはない。倒されるが、滅びることはない。私たちの弱さを通して、神様の素晴らしい力があらわされる機会となります。決して「サイアク」「オワタ」とか、そんなことにはなりません。どのようなときにもその先があります。永遠のいのち、とは終わることのないいのちです。

 イエスのいのちは、私たちの死ぬべき肉体、苦しみを通してあらわれます。

 神のなさることはどんな時でもすばらしいです。主が、私たちを、教会をお守り下さり、測り知れない力をあらわしてくださいますように。