創世記15章1~6節
…そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」 アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。
メッセージ要約
アブラムは、ロトの救出とメルキゼデクからの祝福を通し、主の恵みに目が開かれました。本日の箇所で、アブラムは主との対話を通し、さらに成長します。
主のことばがアブラムに臨み、アブラムは神とはじめて対話をします。神は従ってきたアブラムに対し、「その報いは非常に大きい」と言われました。しかしアブラムは、(今更)「何を下さるのですか」と返答します。アブラムは、主が子孫を与える約束を実行しなかった、すでに高齢なため、実現は不可能だと訴えました。
主はアブラムに、星空を見上げさせ、再び約束します。アブラムは自分から出た子孫が「星のようになる」という、不可能を実現する、主を信じました。このことを通し、アブラムの信仰は深められ、主はその信仰を見て「義と認め」ました([義認])。
わたしたちの地上生涯は、生まれたときに始まり、人生を歩み、死がゴールです。キリスト者生涯は、[義認](罪がないと神から認められる)にはじまり、[聖化](聖なるものとなって、神のものとなる)して人生を歩み、[栄化](朽ちることのない栄光のからだにされる)がゴールです。それぞれのゴールの先には、以前は地獄と訳されていたゲヘナと、神と共に永遠に生きる神の国があります。[義認]は神の国への入り口です。現代は、イエスだけが神の国へ入る門です(ヨハネ10:9)。イエスの十字架によって罪が赦される事を信じることで、義と認められます。
神は、私たちが神と対話することを願われています。一方的に言い、一方的に訴えるのではなく、聞いて、訴えて、応答して、受け入れるという対話、人格的な交わりを求めています。それを通して私たちの成長を促します。[聖化]の道を歩む私たちですが、希望を失ったときには、神が約束して下さったこと、自分が信じたことが何であったのかを思い起こし、神に訴え、神と交わりを持つことが有効です。罪が赦されるという、不可能と思えることをして下さった神は、今も不可能を実現してくださる方なのではないでしょうか。