ペテロの手紙 第一3章18~22節
キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。…
メッセージ要約
本日、棕櫚の主日は、受難週の初日に、イエスがエルサレムへ入城したことを記念する日です。イエスは子ろばに乗り、大勢の群衆に歓迎され、平和の王としてエルサレムへ入りました。この出来事は、4つの福音書全てに書かれています。そして、ゼカリヤ9:9、詩篇118:25,26の成就と見なされています。入城の祭、群衆がなつめ椰子の枝を持って迎えたことから、「棕櫚(椰子のこと)の主日」「枝の主日」と呼ばれています。この後イエスはただ一度、十字架の受難を受けます。
木曜に最後の晩餐、金曜に十字架に架かり、葬られ、日曜まで墓の中にいました。イエスの滅びは、ノアの大洪水で示された、本来は悪に走る人が受けることの身代わりです。ノアの時には、ノアの家族だけが救われ、他の人が滅びました。イエスの時には、イエスだけが滅び、他の人は救われる道が備えられました。滅びるものと救われるものの逆転がイエスの十字架にはあります。それほどの価値がイエスにはあり、そのイエスを滅ぼしてまで与えられる愛が、あなたに注がれています。
イエスは十字架の上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46、マルコ15:34)と言われました。すべての人の中で、神から見捨てられたのはただ一人、イエスだけです。他の誰も、神から見捨てられている人はいません。神を信頼する誓約をする人は、誰でも必ず救われ、将来の復活が約束されています。
しかし、誓約をしても、悪に走るこの世は救いへの道を惑わし、苦難を与えようとします。この世の働きを見るとき、心が挫けそうになるのではないでしょうか。それは、イエスが通った道と同じです。イエスは天に上り、私たちが挫けそうになっているのを見ています。そして、私たちの苦しみを理解し、助けの手を差し伸べて下さいます。このイエスの助けを得て、世の惑わしから逃れ、新しい年度も共に歩んで行きましょう。