エゼキエル43章1~5節

 彼は私を東向きの門に連れて行った。すると見よ、イスラエルの神の栄光が東の方から現れた。その音は大水のとどろきのようで、地はその栄光で輝いた。私が見た幻は、かつて主がこの町を滅ぼすために来たときに私が見た幻のようであり、またその幻は、かつて私がケバル川のほとりで見た幻のようでもあった。私はひれ伏した。主の栄光が東向きの門を通って神殿に入って来た。霊が私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光が神殿に満ちていた。

メッセージ要約

 かつて、エルサレムの神殿には神の栄光が満ちていました。それは、エジプトからイスラエルの民を導き出した神が、そこにいる事の証でした。
そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。“(出エジプト40:34)
 しかし、イスラエルの民が神に対し不義を犯し続けたため、神の栄光は神殿から去って行きます。その様子が、預言者エゼキエルに幻として与えられました。
“主の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。”    (エゼキエル10:18)
“主の栄光はその都の中心から上って、都の東にある山の上にとどまった。”  (エゼキエル11:23)
 神殿はBC586に破壊され、捕囚から戻った民が再建し、ヘロデ王がそれを改築します。しかし、そこには神の栄光は満ちませんでした。失われた神の栄光は、再びエルサレムに、救い主イエス・キリストの誕生(クリスマス)として現れます。
 このことを、待ち望んでいた人と、知らなかった人がいます。知らなかった人にとっては、救い主の登場は突然のことでした。待ち望んでいた人にとっては、預言(エゼキエル43:1-5)の成就でした。預言がなかった異邦人、日本人の私たちには、この救いは突然でした。待ち望んでいた人にとっては、神の約束の成就であり、神は預言(約束)を果たすことの確認となりました。預言は、イエスが再び王として地上に来て治める事へと繋がっていて、これも必ず成就することを伝えています。
 神はまた、現代に生きる一人一人にも約束を与えています。あなたはどのようなものを思い出すでしょうか。そしてそれが、必ず成就すると、待ち望むものになっているでしょうか。