ヨハネの福音書14章1~7節

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」

メッセージ要約

 時々、このように聞かれる事があります。「わたしのような者を、神は愛しているのか」「神は私を見放すのではないか」。私もときどき思います。神に、「あなたは罪深過ぎるので、やっぱり救うのは止めた」と言われても仕方がないと。
 「一人の命は地球より重い」と言われますが、聖書では次のように言っています。
1.天地を創造した神が人となったイエスの命は、地球(宇宙)より重い
2.イエスは、人の罪の身代わりとなって命を投げ出し、十字架に架かった
3.よって、人の命は地球(宇宙)より重い
聖書は人の命は地球どころではなく、宇宙より重いと言っています。
 ここで問題なのは、誰のための十字架だったのかという事です。罪人である、すべての人類のためでしたが、その数がもっと少なかったら、どうなっていたでしょうか。半分、さらにその半分と少なくなって行き・・・もし、人類があなた一人だったら、イエスは十字架に架かったのでしょうか。「わたし一人ためにでも、イエスは十字架に架かった」と思えるかどうかが、神の大きな愛を受け取れるかどうかの鍵です。
 天地創造で人を造り、「非常に良かった」と満足して愛し、その命を「ねたむほどに慕っておられる」(ヤコブ4:5他)神は、人類があなた一人であったとしても、イエスは十字架に架かったのです。わたしたちの神ではなく、わたしの神として、その愛を受け止めるなら、神がわたしを放置し、見放し、見捨てることなど出来ない事が分かるでしょう。
 一方で、その様に悩むことは当然のことです。パウロもその悩みの中にありました(ローマ7:15~25)。自分の罪を見て神から距離を置くのではなく、その愛を信じて受け取ることが、私たちのするべきことです。この事を、知らない人がみ言葉に触れて理解すること、知っている人が、納得して腑に落ちるように祈ります。